島原城

寛永2年(1625年)に松倉重政[まつくらしげまさ]が築いた平山城である。
重政は大阪の陣(1614年〜1615年)の軍功で元和2年(1616年)に4万石を領してキリシタン大名有馬氏の旧居城日野江[ひのえ]に入った。
入部まもなく島原浜の城に移り、、一国一城令の発令後にも関わらず、幕府の九州外様大名への牽制と対キリシタン政策から特別許可を得て、元和4年から新城の建設に着手した。
日野江城、原[はら]城から石材を運び、寛永2年(1625年)三層五重の天守閣のそびえる平城が完成する。
新城に移った重政は領内のキリシタン取り締まりに努めたが、寛永7年に死没。
家督を継いだ勝家は父以上にキリシタンを弾圧し、年貢の取立てを強行した。
このため、寛永14年に島原半島と肥後国天草島の農民が相呼応して一揆を起こし、「島原の乱」へと発展した。
勝家は責任を問われて所領を没収され、以後、城主は高力[こうりき]、松平(深溝[ふこうず])、戸田、再び松平(深溝)と4氏が続いた。 |

福江城

寛政年間から文化、文政、天保、弘化へと続く幕末、ロシア、アメリカ、イギリスの黒船が来航し、鎖国政策をとっていた日本に開国を迫る。
文化5年(1808)イギリス軍艦が長崎港に侵入、オランダ人を拉致し、当時の長崎奉行が責任を取って切腹するという、いわゆるフェートン号事件もあった。
幕府は嘉永2年(1849)7月、五島藩に「城を築き海岸防衛を厳重にせよ」との築城許可を与え、ここに五島氏の半世紀にわたる築城への願望が成就した。
15年の歳月、工費2万両を使って、文久3年(1863)石田陣屋の跡に福江城が完成した。
石田という地名にちなみ石田城ともいわれる。
城郭は、東西160間(約291m)、周囲740間(約1346m)、野面積みで堅牢な石垣を持ち、城郭の三方を海に囲まれ、日本民族、日本国を守るという使命を持った海城である。
現在、本丸跡には五島高校、三の丸には福江文化会館、五島観光歴史資料館、市立図書館、五島家始祖家盛公らを祀る城山神社がある。 |

平戸城

平戸城は、平戸藩主松浦30代雄香公棟により宝永4年(1707年)に築城された平山城ですが、明治維新以後は荒廃し、わずかに北虎口門と狸櫓が残るのみである。
現在の天守閣は昭和37年に復元されたもので、天守閣内部には松浦藩資料や太刀、武具、隠れキリシタン資料などが展示されている。
また、天守閣からは平戸の町や平戸大橋が眺められる。 |
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