月山富田城

この城を築いたのは平家の家人悪七兵衛景清で、保元・平岩の乱の頃ではないかとされている。
文明18年(1486)に尼子経久が攻撃し、城主だった塩谷掃部介が討死に、落城し、経久のものとなり、この約80年に渡り尼子氏が続いた。
永禄の時代になって、この城は大内・毛利の連合軍に攻撃を受け、落城。
永禄9年(1566)に尼子氏にかわって毛利氏が城代を置いた。
同11年に元就の五男元秋が入り、その後は八男末次、次男の吉川元春、吉川広家の順で、一門の支配が続いた。
関ヶ原の合戦の後は堀尾吉晴が入るが、交通の便が悪い事から松江に築城し移り、この城は慶長16年に廃城となった。 |

松江城

松江開府の祖、堀尾吉晴が築城。堀尾3代、京極1代、松平10代の居城となる。
山陰地方で唯一の現存する天守閣は、高さ30m、5層6階で威圧するように大きい。
同じ頃造られた姫路城の華麗さに比べ、松江城は武骨で実戦本位の造りとなっており、黒い下見板張りで、初期天守閣の名残をとどめている。
天守閣内には、旧松江藩ゆかりの品を数多く展示し、よろい、かぶと、刀剣類から火事装束、膳、椀にいたるまで、出雲18万6千石の威容をしのぶことができる。 |

津和野城

永仁3年(1295)、鎌倉時代・元寇の役のおり、石見国(島根県)において海岸防備で戦功のあった吉見頼行が築城、「三本松城」と称した。
吉見氏は蒲冠者(かばのかんじゃ)こと源義朝の6男・範頼の子孫といわれる。
天文22年(1553)大内義隆を破り勢いに乗る陶晴賢との戦で津和野城を持ちこたえさせる。
やがて晴賢は滅亡、中国地方は毛利の支配になると吉見氏は毛利氏の重臣となった。
14代広行が関ヶ原合戦で主家である毛利輝元に従ったため領土を没収。
慶長6年(1601)坂崎直盛が3万石で入封、城の大改修行い山上に壮大な石垣を築く。
直盛は備前国(岡山県)の宇喜多氏一族で、”宇喜多左京亮”といったが、当主の秀家と悶着を起こし、徳川家康に仕えてから”板崎”と改姓したのだ。 |
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