姫路城

1346(貞和2)年に赤松貞範が初めて築城したと伝えられ、その後の幾多の改築を経て現代にその雄姿を残す名城。
その源は、貞範の父で足利高氏の開幕を助け播磨守護の地位を得た守護職則村が1333(元弘3)年に築いた砦に求めることが出来る。
赤松氏の後に、赤松氏家臣小寺氏(赤松一族)が居城と
し、1545(天文14)年には小寺氏の家老である黒田重隆が入城した。
重隆の後は孫の孝高(秀吉家臣)が城主となるが、1580(天正8)年に羽柴秀吉が織田信長の命令によって西国攻略の拠点として入城し三層の天守閣を築くに至った。 |

篠山城

篠山城は、慶長14年に徳川家康が京都から山陰・山陽両道に通じる要衝である篠山盆地に豊臣氏の大阪城と西国諸大名を監視する布石として、築城させた城である。
普請総奉行は姫路城城主・池田輝政、縄張は築城家で名高い藤堂高虎。 |

出石城

古城(有子城)は天正2年に山名祐豊が築城した。
天正8年、播磨を平定した秀吉は、但馬に侵攻して有子城を攻め城主山名祐豊は秀吉の軍門に降る。
有子城主は、前野長康・小出吉政が封じられた。
新城(出石城)は慶長4年に小出吉政の子吉英が、有子山の古城を廃し、北麓に新築した。
小出氏は、6代英及が3歳で夭折し断絶する。
小出氏断絶後、松平忠徳が9年在城し、宝永3年信濃上田より仙石政明が58,000石で入封して、仙石氏が明治まで代々居城した。 |

赤穂城

正保2年(1645年)、浅野内匠頭の祖父・浅野長直が常陸国笠間から播州赤穂へと転封。
慶安元年(1648年)から赤穂城の築城に着手した。
一国一城令は出ていますが、実際には例外的に存在している城はいくつかあり赤穂城もその一つです。
城が竣工したのは13年後の寛文元年(1661年)で、天守台は築かれましたがその上に天守閣が築かれることはない。
赤穂藩は5万余石の小藩ながらも、塩田の開発で財政はわりと潤っていた。
元禄14年(1701年)の浅野内匠頭刃傷事件で赤穂浅野藩は改易となり、その後は永井家、続いて森家が赤穂に入り、明治維新を迎えて廃城となりました。 |

明石城

明石城は、喜春城の別名を持ち縁起の良い城とされてきた。
本丸の4隅に建てられた隅櫓のうち、巽、坤櫓が現存している。
また、時報を人形が太鼓を叩いて知らせてくれるというハイテク太鼓櫓も復元?している。
震災で破壊の修復が長い間行われていたが、ついに終了したみたいだ。
(訪れた時は、櫓自体の修理は終了していたみたいだが本丸内には立ち入れなかった) 明石城下の町の縄張りは、客将として招かれていた剣豪宮本武蔵が行ったと言われている。 |

竹田城

この城は但馬守護の山名宗全が永享3年(1431)から12年を費やし嘉吉3年に完成さしたとされる。
天正元年(1573)、播磨竜野城主赤松広秀に攻め落とされ、時の城主大田垣朝延は因幡に逃れ、広秀が城主となった。
同8年羽柴秀吉の中国攻めの際、羽柴秀長が城を包囲すると戦わずして降り秀吉に従った。
その後秀長の家臣桑山重晴が城主となり、同13年再び広秀が城主となった。 |

洲本城

洲本市街の南に位置する三熊山(高熊,乙熊,虎熊
3山の総称)には,16世紀前半に築かれ,豊臣秀吉にもゆかりある洲本城の石垣や本丸が今に残されている山頂には,昭和3年に造られた天守閣がそびえ,この上から望む眼下の眺めが素晴らしい。
市街や大阪湾,紀淡海峡を一望し,山の北面には,多種にわたる貴重な植物が目を楽しませてくれる。
山頂へは登山道の他にドライブウェイが整備されており,石垣の下まで車で行くことが出来る。 |
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