日本の城(長野県)


小諸城

小諸なる古城のほとり”と詠う島崎藤村の「千曲川旅情の
うた」であまりにも有名な小諸城は、大井氏の居館を武田
信玄が大改修して城郭の体裁を整えた。

その後も城主はめまぐるしく変わったが、元禄になって牧
野氏の居城となり、明治維新まで続いた。

穴城の異称があるように、ここは城下町より低い珍しい構
造となっている。
小諸なる古城のほとり”と詠う島崎藤村の「千曲川旅情の

周囲は断崖が堅固な要塞となっていて、水は張っていな
い。

城内は懐古園と呼ばれ、公園となっていて、落葉樹の多い
名園である。

また、園内には島崎藤村記念館のほか、若山牧水歌碑、高
浜虚子句碑、小山敬三美術館などがあ、近年、渥美清の寅
さん会館も建てられた。

高遠城

高遠城はその周辺を支配していた諏訪氏の城でしたが、諏
訪氏が武田信玄によって滅ぼされると、武田氏の城となり
、1547年に拡張工事がなされ本格的な城となった。

1581年、織田軍の本格的な侵攻を警戒した武田勝頼は
弟・仁科盛信を高遠城主とし備えさせた。

その予想通り1582年、織田軍は信長の嫡男・信忠を総
大将として5万もの大軍で信州に攻め込んできた。

武田軍の兵たちは織田軍の武威を恐れて抵抗らしい抵抗も
せず次々と逃亡・降伏していったが、仁科盛信だけはわず
か3000兵で迎え撃ち、激戦の末、壮絶な討死を遂げた。

江戸時代に入ると保科氏、鳥居氏、内藤氏が城主となり、
明治維新を迎えた。

現在は桜の名所として知られている。

松本城

松本城は前身を深志城といい、永正元年、小笠原氏の臣島
立貞永が豪族坂西氏の館跡に創建したと伝えられている。

のちに武田信玄の信州進出の拠点となり、武田氏の没落後
は父祖の地を継いだ小笠原貞慶が松本城と改称された。

その後秀吉によって石川数正が8万石の城主として封ぜら
れ現存する五層六階の天守に着工、息子の康長の代に完成
した。

天守につながる月見・辰巳櫓は江戸初期に増築されたもの
だそうです。

石川氏の改易後は小笠原氏・戸田松平氏・堀田氏・水野氏
と城主が代わりましたが、享保11年(1726)に松平(戸田)光
慈が入部し、以後明治に至った

諏訪高島城

高島城は1590年(天正18年)、諏訪に転封された豊臣秀吉
の部将、日根野織部正高吉によって設計され、1592年
(文禄元年)着工、1598年(慶長3年)に完成した。

この城は、諏訪湖と数条の川により周囲の濠の役割をして
いて、諏訪湖の波が城壁にせまり、水中から城郭のみが浮
き出したように見えたために、「諏訪の浮城」とも言われ
たそうである。

明治8年(1871年)に城郭は撤去され、明治9年より高島城
跡は、高島公園として一般に公開された。

現在の天守閣は昭和45年(1970年)春に復興されたもので
、内部はちょっとした博物館のようになっている。

上田城

上田城と真田氏の名は、天正13年(1585)と慶長5年
(1600)の二度に亘る徳川の大軍を退けたことで、知られ
ている。

上田城は天守閣も無いし、石垣も少なく見栄えのする城で
はない。

しかし二度もの実戦の経験があり、しかも小よく大を制し
たこの上田城のような戦歴を持つ城は、全国でも他に例は
見られない。

松代城

松代城ははじめ海津城といい、永禄3年(1560)武田信玄
が甲斐から信濃に進出し、越後の上杉謙信に備え構築した
ものである。

以降武田の武将が城主となって守ったが、武田氏滅亡後、
織田信長の家臣森長可が入り、本能寺の変の後上杉景勝の
領地となった。

城は平地ながら甲、信、越を結ぶ交通の要衝であり、善光
寺平の東南端を占め、本丸を中心に二の丸、その南に三の
丸があった。

現在の城跡は、本丸と天守台石塁を残すのみで公園となっ
ている。

城跡の少し南の真田邸跡には、真田宝物館、真田藩文武学
校等が公開されている。

龍岡城

信州に1万2千石、三河に4千石領地を持つ三河奥殿藩の
(大給)松平氏は、宝永以来160年間三河に本拠を持ち佐久
には陣屋を置いて領地22ケ村の統治を続けて来たが、11
代乗謨になって幕末激動の情勢に応じて信州に居館を移す
事を計画し、元治元年(1864)3月着工、慶応3年(1867)竣工
、地名をとって龍岡城とした。

龍岡城は函館の五稜郭と共に日本に二つしかない星形の洋
式築城で貴重な遺跡である。
 

inserted by FC2 system