日本の城(山梨県)


新府城

新府城は、武田氏が甲斐国内に築いた城だ、 風雲急を告げる戦況の中、急遽築かれた城のため、未完と部分が多く見られる城と云える。

新府城は、釜無川の浸食によって出来た七里岩と呼ばれる絶壁を利用して、七里岩の上に広がる丘陵上に築かれた城だ。

新府城の大手口は、東南隅に置かれ三日月堀を伴った丸馬出とその内側に直進式桝形虎口を伴った武田氏築城の典型的様式となっている。 

新府城は、丸馬出を伴う虎口は大手のみで、他の虎口は土塁による食い違い虎口形式となっている。

甲府城

天正3年(1575年)5月、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れた武田勝頼は、甲府に引き揚げ、軍勢の立て直しに努めました。

そして、天正9年12月24日、藤武神社地に新府城を築き、つつじヶ崎の館から移ったのである。

だが、落ち着く間もなく、天正10年3月3日、勝頼自らこの城に火を放ち、逃げることになったようである。

群内の岩殿城へと目指しましたが、勝頼は悲劇の最後を遂げる運命にあった。

途中、天目山下の田野で自害したのでした。

躑躅ヶ崎館

甲斐守護職武田氏3代が本拠地とした城館としてあまりにも有名。

「人は城、人は石垣、人は堀…」とする名文句で謳われるのはこの館の事である。

甲斐国(現在の山梨県)に勢力を張る甲斐源氏・武田氏の起源は平安時代にまで遡る。

源氏繁栄の基礎を築き、奥州征伐などに抜群の武功があった源義家は八幡太郎の呼び名高く、後世に源氏血統を称する者達がその祖と誇る武将であった。

義家の弟である義光もまた、後三年の役へ参陣して新羅三郎の名を轟かせ覇を唱えた剛勇の将。

この義光は甲斐国に封を得て土着し、以後の世に甲斐源氏の家格を遺すようになったのである。
 

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