日本の城(埼玉県)


忍城

忍(おし)の地は古くは武蔵七党の一つである児玉党の領地であったが、応仁の乱後、下克上の時代となった文明年間(1469〜86)に関東管領上杉氏の被官だった成田親泰が児玉重行を滅ぼし、忍城を築いたといわれる。

戦国時代に入って、関東管領上杉憲政が小田原北条氏に追われて越後の長尾景虎(後の上杉謙信)の下に逃れ、その名跡を景虎に譲ると、成田親泰の子長泰は上杉謙信の配下に入った。

その後、成田長泰は上杉謙信と不和になって北条氏に属し、外様衆の上席として優遇され、その子成田氏長の代には総知行高24万石にまで勢力を伸ばした。

上杉謙信は幾度となく忍城を攻めるが、いかに戦上手の謙信でも、要害堅固な忍城を落とすことは出来なかった。

岩槻城

岩槻城は室町時代の長禄元年(1457)扇谷(おうぎがやつ)上杉持豊が室町幕府に反旗を翻した古河公方(足利成氏)に備えるため、重臣の太田道灌とその父道真に築かせた城で、太田道灌の養子太田資家が初代城主となった。

太田資家の後、その子の太田資頼が後を継いだが、大永5年(1525)江戸城を攻略した小田原の北条氏綱がその勢いで岩槻城に来襲。

この時、太田資頼の家老渋江三郎が北条氏綱に内応したため、3千余名が討死して落城、資頼はかろうじて石戸城に落ち延びた。

岩槻城は北条氏の持城となり、渋江三郎が守将となったが、享禄4年(1531)太田資頼は古河公方の助力を得て岩槻城の奪回に成功した

川越城

川越城は室町時代、中期の長禄元年(1457) 関東管領、扇谷上杉持朝の命により家臣である太田道真・道灌父子が縄張りによって、築城したお城 だった。

また、川越城は、姫路城や名古屋城などのように、天守閣があるのではなく、石垣もない、自然の地形を生かした堀と土塁で囲まれた平城でした。

現在残っているのは、本丸御殿で、嘉永元年(1848)に造営されて来、約150年間存続している建物です。

今でも、川越藩17万石の風格を忍ばせる大唐破風と大ひさしのついた玄関や、その屋根瓦についている三葉葵の紋などを見
ることができる。

 

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